甲府のカトリック教会 L’église catholique de Kôfu

今回の旅のハイライトは、12歳当時の母が1945年7月空襲に遭ったあと、先生や友だちと身を寄せた甲府カトリック教会です。
疎開していたときの話は、sachanもjunjunも「360万回」ぐらい聞かされて育ちましたが、実際にいっしょに現地へ行くのは初めてでした。

甲府で空襲に遭った話。

七夕の(前の日の)夜、学校の隣に駐屯していた兵隊さんたちが屋外で映画会をしてくれた。
映画会が終わって、眠っていたら空襲が来た。
起こされて、見ると窓の外が真っ赤になっていた。外へ逃げて防空壕へ入った。
それぞれの荷物は普段から行李にしまって、紐でくくってあった。その行李を、先生(シスター)が窓からどんどん外へ投げながら、「逃げなさーい!!逃げなさーい!」と叫んでいた。
皆で防空壕に入っていると、入口のところに焼夷弾が落ちて、油の煙がどんどん入ってきて窒息しそうになった。先生が水の入った大きな薬缶を持って入っておられたので、その水を皆でハンカチに浸して鼻をふさいで助かった。(あの水は、皆で死ななければならなくなったら、きっと先生が皆に洗礼を授けるために持って行った水にちがいない、あの時死んでいたかもしれない。死んでいたら、あなたたちは今ここにいない。)
焼夷弾は兵隊さんが消してくれた。
学校が焼けてしまったので、次の日に街の真ん中にあったカトリック教会まで歩いて行った。
教会の聖堂は畳敷きだったので、そこで皆でお泊まりしていた。
そのうちに東京から親が迎えに来てくれたのです。

こんな話を、なにしろ繰り返し、繰り返し、聴かされたので、もうほとんど自分もその場所にいたかのように、窓の外にめらめらと燃える禍々しい赤い色や、恐ろしい煙の立ち込める暗い防空壕の様子が目に浮かんできます。
ほんとうにそのとおりだ、あのとき子どもだった母が死んでいたら、わたしたちは生まれていなかったはず。命をつないで今があることは、奇跡。
そして今回はいっしょに、その場所を訪ねることができて、ほんとうによかった。

カトリック教会は当時のまま残っています。横の入口には今でも「天守堂」と書いてあります。
外にはルルドのマリア様がおられて、横にあんずの木が実をつけていました。
当時畳敷きだった聖堂の床は、今は外からそのまま入れるようになっていましたが、雰囲気はいかにもこじんまりとして古めかしくて、懐かしい感じでした。

疎開していた女学校の跡地も探しました。
「山のきわにあった」というので、遠く街はずれの「山梨英和学院大学」のほうまでドライブして行ったら、「ここじゃない」。「それじゃやっぱり中学高校のほうか?」と引き返して、「山梨英和中学高校」を見に行きました。周りは細い道。愛宕神社へ登る坂道があって、斜面に家が立ち並ぶ住宅地でした(確かに斜面だ)。
学校のグラウンドに沿った道から、綺麗な女子学校の敷地が見えて、「ここだわ」というわけで、めでたし、めでたし。

「焼け出された夜、周りのお家の方たちが、鮭缶を開けて食べさせてくれた」のだそうです。
その話は初めて聞いたよ???
「学校から細い道を下っていくと、踏切があって、そこを渡ってお風呂やさんへ行っていた」とか。
確かに今も、学校から中央線の線路のほうへ降りる道は、細い歩道でそのまま残っているようです。
77年も前の、母の子どもの頃の記憶。
辛かった戦争。でもそれが子ども時代の懐かしく大切な想い出でもある。
sachanしみじみ。ツアーを計画予約してくれたじゅんじゅんに感謝。

コメントを書く  Laisser un commentaire

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.