滋賀の旅(8) 「井伊の赤備」と直弼の手紙 Les armures rouges du clan Ii et la lettre de Naosuke

La couleur rouge des armures est la tradition typique du clan Ii.
C’est intéressant de savoir qu’à l’origine des armures des Ii, il y avait leur connexion avec le clan Takeda qui était renommé par leur force militaire exceptionnelle.
Les formes des casques avec des ‘cimiers’ dorés sur les côtés étaient réservées pour le Seigneur, alors que pour les autres membres du fief, la décoration des ‘cornes’ est situé sur le front.

Le musée a été construit dans les années 80 à l’endroit où se trouvait la résidence du Seigneur, à l’intérieur du douve, juste à l’entrée. Les pièces de tatami reproduites sont très belles avec la vue sur le jardin.

Mais la chose la plus intéressante pour moi était la lettre de Naosuke, qu’il a adressé à Geki Inuzuka, un de ses ‘assistants’ très proches. Entre Naosuke et son ‘père’ adoptif (qui était en fait son frère) Naoaki, les relations étaient très délicates et il se demandait toujours si c’était ‘ok’ de faire ceci et cela… c’est pour ça qu’il avait besoin de s’entourer de personnes à qui il pouvait demander conseil. (voir la dernière photo : sa lettre avec la ‘traduction en japonais moderne) . La vie d’un Daimyô n’était pas aussi facile qu’on ne l’imagine!!

井伊の赤備え(あかぞなえ)

彦根藩井伊家では、藩主以下家臣にいたる かっちゅう はたさしもの まで、甲冑や旗指物を朱色で統一していまし た。これを「井伊の赤備え」と呼びます。

そのルーツは甲斐(かい)の武田氏にあります。 徳川家康は、若い井伊直政(いいなおまさ)を強力な大将とするために、武田の遺臣を中心とする 117名を 彼につけ、軍事力の増強を図りました。 さらに、勇猛で知られた武田家の有力武将、 飯富 虎昌(おぶとらまさ)らの“赤備え”にあやかって、その軍団 を赤一色とするよう命じたのです。直政は、 武田軍団の象徴を名実ともに受け継ぎ、徳川家臣団のなかで最強といわれるようになります。 後に直政は、 徳川四天王の一人に数えられました。

藩主の具足

藩主やその子弟所用の具足25領が伝えられています。いずれも朱漆塗りの当世具足で、藩主所用の具足の兜には、巨大な金箔押しの天衝脇立(てんつきわきだて)が立てられています。世子(せいし)以下、藩士たちは小ぶりの前立てをつけるよう決められていました。

朱漆塗紺糸威桶側二枚胴具足(しゅうるしぬり こんいとおどし おけがわにまいどう ぐそく)
滋賀県指定有形文化財 桃山時代 井伊家伝来資料
彦根藩井伊家初代・直政(なおまさ)の召替具足と伝えます。胴は山道頭(やまみちがしら)と呼ばれる波状の刻みを入れた板札(いたざね)を矧ぎ合わせた桶側胴。井伊家歴代の当主は、兜に金箔押しの天衝(てんつき)を脇に立てるのが通例で、本作にも大天衝脇立(おおてんつきわきだて)が装着されています。

江戸時代を通じて、具足の基本形は同じですが、細部に変化が見られます。直政や2代直孝所用と伝える具足は、実戦での使用を目的としていたため、防御と動きやすさを重視したシンプルなつくりとなっています。さらに、鉄板を多用しているので大変重く、直政所用と伝える1領では、総重量が27.3kgもあります。しかし、平和な時代が続くと、具足は実用からはやや離れて、装飾性が加味され、さらに軽量化が図られました。13代直弼の具足になると、その材料に練皮(ねりかわ)を併用しているため、13.3kgとかなり軽量になっています。
実戦が行われない時代になっても、甲冑のもつ武門の象徴としての重要性は変わらず、藩主や世子の具足は入念に作られました。他の大名家に比べると、朱具足であることを除けば、個性の主張は控えめで、頭形兜(ずなりかぶと)を主流とした比較的質素なつくりということができます。
しかしその中でも、個々の具足の細部に目を移すと、威糸(おどしいと)の色や飾金具に、それぞれの個性が反映されていることがわかります。

江戸時代中期以降に盛んに作られた、復古調の具足(鎌倉時代の甲冑の大袖(おおそで)や毛引威(けびきおどし)を模倣した具足)を所用とした藩主もあります。
またその一方で、彦根藩の基礎を築きあげた直孝への憧れから、その具足を模した4代直興(なおおき)や直弼(なおすけ)のような藩主もいました。

こちらが家来の具足。やっぱり藩主様のは、抜きん出て立派だあー!

朱漆塗仏二枚胴具足(しゅうるしぬり ほとけにまいどうぐそく)  江戸時代
彦根藩士であった中村家に伝えられた具足。
藩主以下、家中の軍装を赤で統一した「井伊の赤備え」スタイルに則り、全体を朱漆塗りとし、兜には金色の天衝前立(てんつきまえだて)を備えます。
多くの兜が主漆塗とされましたが、この具足のように鉄地のままとすることもありました。
仏胴とは、胴の表面に継ぎ目がみられない様を、仏像の滑らかな胸に喩えて名付けられています。
Suit of Armor in the Gusoku Style, Red lacquered iron cuirass in the Hotokedo Style.
Edo period, 19th century. Kept by the Nakamura Family, Retainer of the Hikone Fief.
Gift of Mr.Hidekatsu Nakamura.

いろいろ刀も展示されてあったけれども、ささっと通りすぎて、殿様の居住空間であった「表御殿」を復元したところを見学。

博物館でいちばん印象に残ったのは、井伊直弼が信頼する家臣の犬塚下記にあてて記した書簡です。現代語訳もついていて、おもしろい。
当時の藩主である養父・直亮(なおあき)(異腹の兄)とのコミュニケーションがなかなかうまくいかないことを思い悩んでいる様子。

このほかに、「儀式のために着る礼服を送ってくれと頼んでおいたのに、なかなか届かないので、仮病をつかって休んでしまったじゃないか、困ったことだ」などと苦情を国元へ書き送った手紙もありました。
偉い殿様でも苦労が絶えなかったとみえる。

弘化3年(1846年)7月29日 井伊直弼書状 犬塚下記宛て
直亮から笙(しょう、雅楽器)を頂戴したことに感謝しながらも、その真意をはかりかねる直弼の様子がうかがえる。
当時、直弼は奥向きの女性を彦根から呼び寄せようとたびたび直亮に依頼しており、それを直亮が「笙(しょう)」と「妾(しょう)」(めかけの意)をかけて皮肉っているのでは、と深読みしている。
Letter to Inuzuka Geki by Ii Naosuke. Edo period, Dated Koka 3 (1846)

… とこのように、終始とても楽しんだ博物館見学でした。
つきあってくださったラッコさん ありがとうございました。

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