昔の教室の記憶 Souvenirs souvenirs…

10月7日(水)Wicklow Way 8.7 km

今年は白水社の雑誌「ふらんす」に連載の記事を書いています。
毎月 1つの名詞 を取り上げて、その名詞を含んで、いろんな意味に展開できる表現を見ていくという内容です。
今日も共著者の友だちジョルジェットとfacetimeで相談をしていたら、彼女が「大昔、日本へ来たばかりのころ、日本語を習っていたときに…」と思い出を述べていて、そこから「さっちゃんは日本語教師をしていたとき、どんなところで教えていたか」という話になりました。

筑波大学や埼玉大学の学生さんたちの顔がどんどん出てきて、とても懐かしくて、あれから30年以上も経っているのに(なにしろ息子が生まれたすぐ後の3年半、筑波大に行っていたので)よく覚えていたものだと思いました。

あの人たちは今どうしているかなー?漢字に四苦八苦していたブラジルの水泳選手(とびきり美しくて浴衣がよく似合った)コンピュータサイエンス専門や医学専門や、バングラデシュやイラクやイギリスやタイや、いろんな人たちがいました。
それから明治大学へ日本語作文の授業をしに行っていた頃に、ちょうど昭和天皇が亡くなって、その直後の授業の初めに韓国人の学生さんに「昭和天皇の戦争責任について先生はどう思うか?」と質問されて「日本人のなかにもいろんな意見があり。。。」と言いかけたら、「一般論をきいているのではない、田中先生の本音の意見を知りたいのだ」とつっこまれたこと。
「そんなら、戦争反対だった母方の祖父と、戦争中に政府機関で働いていた父方の祖父と、両親の世代の感じ方と、そういう身近な普通の日本人の体験の話ならできるけど、今日の授業の内容をそういうのに変えても良いのなら、その話をしましょうか」と言って、フランスで見聞きした第二次世界大戦中のフランス人のこと、留学で出会ったオーストラリア人や中国人やアフガニスタン人の友人たちの家族が戦争をどのように生き延びてきたのかという話など。。。
韓国や台湾や中国の学生さんたちと、いろいろディスカッションをしたのでした。

そんな思い出話をしていました。
いろんな国籍の人たちに触れる日本語教育の現場は、若い日本の人たちが多かったフランス語教育の現場とずいぶん雰囲気が違って、両方に携わることのできた経験はとても楽しかった。
それにしても、日本の若いひとたちは、もっと異質なものに触れる機会があれば良いのにね?と、ジョルジェットと話したのでした。

そんなわけで、ジョルジェットといっしょに仕事をするなかで、ずいぶんいろいろなことを振り返ったり、自分のフランス語を学んできたプロセスについて思い返したりもするのです。
そういうことがとてもありがたく、大切です。

今朝のウオーキングは裏山のウイックローウェイを8Kmあまり楽しく歩きました。
道端に小さなモミの木が生えていると、そろそろ友だちはクリスマスツリーをどうしようかとか、話しています。

パトリシアさんが家で鉢植えのクリスマスツリーにするわ と引っこ抜いて持ち帰ってました。彼女は園芸が得意で花の名前とかもよく知っている。
sachanはplants’killerなので、やめておきます。

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