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| 白蓮の花が散ったあと、葉っぱの芽が出てきていました。うしろに細かく見えてるのはカエデの芽。 いろんな種類のいろんな葉っぱが色とりどりに出てくるこの季節は、ほんとうに美しい。 |
今年の復活祭は4月8日(日)。
オーストリアでは金曜日から月曜日まで連休。
私は東京で日曜日のミサに妹といっしょに参加したあと、月曜日の朝 東京を出て、夕方オーストリアに到着しました。
桜の花の咲き乱れる東京から さくらんぼの花がぶどうの畑をふちどっている静かなBB村へ。180度 異なった世界を行ったり来たりにも、だんだんと慣れてきました。
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この日、キリスト教 カトリック教会では復活祭のミサを行う日です。
カトリックでは今週末 「復活祭」イースターを祝います。
この世に生きている限り、誰でも大小のいろんな苦しみが尽きない。人間みんなの苦しみを背負ったキリストが いちどは罪をつぐなう者として死んだあとに、新しい命を得て、希望の象徴として人間につきそい寄り添ってくれる存在になった・・・という意味を持つ、復活祭。
ミサに参加しますと、毎回 式次第の書いてある紙をもらいます。
今回はその小さな冊子をめくって、ハッとしました。
ケセン語に聖書を訳した医師の山浦玄嗣(はるつぐ)さんの書かれた文章がのっていたのです。
以下に全文を書き留めておきます。
…………
また立ち上がる!
「エリ・エリ・レマ・サバクタニ!
神さま、どうして俺をお見捨てなされた?
この呻き、この叫び、何でお耳に届かない?
昼は朝から日暮れるまで、夜は夕から朝明けるまで、
声を嗄らして叫んでいるのに、
優しいお声の一つもかけて、
この俺を黙らせてはくださらぬ。」(詩編22から)
地 殻は震い、山は裂け、海は逆巻き、大地を呑む。鬼哭啾啾(きこくしゅうしゅう)、雪交じりの寒風が瓦礫の野を吹きぬけ、天地を覆う腐敗臭の中、肉親の遺体 を求めてさ迷う虚ろな目。桑田(そうでん)変じて滄海(そうかい)となり、変わり果てたふるさとの海辺にむなしく枯れた松が一本。
絶望の呻きとも聞こえるダビデの歌はやがて力強い希望と信頼の叫びに変わる。イエスの言葉には、断末魔の苦しい息の下、ついに言葉にできなかった下の句がある。
「だが俺は知っているぞ。
救いを求めて叫ぶ者を神さまは見捨てない!」
崩れた崖の上、コヒドロ山(大船渡教会の建つ丘)に生き残った十字架が白く輝き、眼下の惨状を見下ろして身を寄せる一団の幼稚園児が誰に音頭を取られたわけでもないのに、いきなり叫び出した。
「津波になんか、負けないぞ!」
咽 喉も裂けよと叫ぶ声にこれを聞く大人たちが奮い立った。そうだ、これが気仙衆(けせんし)だ。およそ四十年毎に繰り返す津波を潜って、われわれはこの地に 歴史を刻んできたのだ。津波だろうと病気だろうと、人は必ず死ぬ。ここで生まれてここで死ぬ。これがわれわれの栄光だ。うろたえるな!神さまが見捨てる? 何をいうか!そんなことがあってたまるか。信頼は生き死にを超える。
「この俺には、人を立ち上がらせる力がある。この俺の言うことを本気で 受け止め、その身も心も委ねる者は、たとえ死んでも生きるのだ。」(ヨハネ11・25) 目を開けてよく見よう。世界中から駆けつけた助っ人が黙々として瓦礫の山と奮闘している。自衛隊員が泥だらけの遺体を掘り出している。己のことでは流さぬ 涙が、これを見て初めて流れた。神さまはわれわれをお見捨てになっていない。
(日本カトリック医師会 仙台支部 山浦玄嗣)
聖書と典礼 2012.4.8. p.7
—- (引用終わり)——-
ネットで山浦さんのことを検索したら、ちょうど 去年の復活祭のことをテレビの番組で話されていたことを、克明に書き起こしている方のブログにぶつかりました。
ここです
聖書のケセン語翻訳をされている山浦さんの ギリシャ語の知識も折り込まれた話が興味深い。
